ちのしおプロフィール
学生時代
私ちのしおは、四方を山に囲まれた海なし県、長野県で生まれ育ちました。360°どこを見ても山、山、山。冬場にイノシシが麓まで降りてきて田んぼの中を駆け回ったり、民家の近くでクマが目撃されて住民が騒然となるという、自然がとても身近な地域で少年時代を過ごしました。
その一方、海がなかったので子供の頃から海に対する強い憧れがありました。私は趣味で少しだけ釣りをやりますが、川や沼や湖よりも海釣りの方が断然、好きです。広い海を眺めているだけで、とても心が落ち着くからです。
周囲を山に囲まれた世界で暮らしていると、なんとも息苦しい感じのする時があります。特に寒さの厳しい冬場はそうです。暗く閉ざされた世界、という感じがしました。そのため海に限らず、目の前が大きく開けた広い世界への憧れを常に持ち続けていました。学校では英語が好きで、得意科目でもあったので、将来は外国と関係のある仕事がしたいなあと漠然と考えていました。
地元の高校を卒業後、東京の大学に進学します。学部は文学部フランス文学科。フランス文学に特に興味があったわけではありません。その頃、単純に英語以外の言語を専門で勉強してみたいと思っただけです。英語以外だったら他に何があるだろう?中国語?スペイン語?まあフランス語だろ。なんかおしゃれそうだし。ぐらいの感覚です。思い込んだら周囲の目を気にせず、マイペースで進む姿勢は、基本的に学生時代から今に至るまで変わっていないかもしれません。
就職、最初の方向転換
当時の私は将来、フランス語の通訳になろうかなあ、などと無謀なことを考えていました。通訳は無理でも、レベルを極めればどこかの企業の海外部門には就職できるだろうと。しかし就職活動を迎えて、そんな夢想は木っ端みじんに吹き飛ばされます。
まあ、ちょっと考えたら分かりますよねぇ。それまで何の素養もなかった人間が、いきなりゼロから始めた言語を、たった4年間でビジネスレベルまでマスターするなんてどだい無理な話しです。それにビジネスの共通言語は英語が常識。フランス人でも仕事の話なら英語でします。今にして思えば世間知らずにもほどがありました。
そんな折しも世間では拓銀破綻、山一証券自主廃業と、金融界を揺るがす大事件が立て続けに起こり、時代は就職氷河期へ突入していきます。フランス文学専攻の学生にとってはますます厳しい状況になりました。
4年生の6月に入り、どこからも内定がもらえず面接で玉砕し続けていた私は、ここに至ってようやく自分の置かれた現実に気付きます。そしていよいよビジネスの世界に飛び込む決心を固め、同時にそれまで学んできたフランス語を完全に捨て去ることにしました。これが私にとって人生最初のピボット(方向転換)です。
転職3回、念願だった海外営業への道
最終的に中堅オーディオメーカーから内定をもらった私は、その会社に就職しました。配属先は国内営業部。担当地域の家電量販店を回って発注をもらい、商品を販売する仕事です。商戦期や新装開店の際には自らも電器屋さんのはっぴを着て店頭に立ち、接客・販売もこなしました。
お店の担当者とも仲良くなって仕事にも慣れてきた3年目。それまであまり業績の良くなかったその会社は、中間決算でついに債務超過に陥ってしまいました。このまま行けば来年にも倒産、社員は全員クビ、という状態です。
結果、年齢、給料の高い人から順番に人員整理が始まりました。社員の給料は一律20%カット。もちろんボーナスもなし。同期の仲間とは「これなら会社辞めてバイトした方がよっぽど稼げるんじゃね?」と話していました。それと同時に私の中で、ある思いが湧き上がってきました。それは「海外のお客を相手にビジネスをする」という夢です。ここから転職活動を開始します。
最初の転職で半導体の商社に移籍しました。お客さんは国内メーカーの技術者でしたが、メーカー側の人間と話しているうちに、やっぱり自分も自社製品を作るメーカーに行きたいと強く思うようになりました。父親がエンジニアで、長野の片田舎で零細工場を経営していたことも影響しているかもしれません。日本のモノづくりに対する思い入れもありました。
3年で商社を辞め、今度は電子部品メーカーに転職します。転職2回目にしてようやく念願の海外営業です。中国、香港、ドイツ、カナダ、アメリカ。激務でしたが仕事で世界各地へ行かせてもらうことができて、本当に楽しかったです。
しかし仕事は良い面ばかりではありません。私の上司はとてもクセの強い人でした。私が有給休暇中と知りながら、ここぞとばかりに仕事を振ってくるのはまだ序の口。海外出張中でも時差などお構いなしに電話をかけてくる。休日も頻繁に携帯へ電話してきて、すぐに営業結果を報告しろと狂ったように吠えまくる。お客さんとの電話会議中に突然ブチ切れ、まとまりかけていた商談をいきなりひっくり返す。商談中に何が気に入らなかったのか、得意先の面前でいきなり私を罵倒しだす。接待の最中に電話をしてきて、目の前にいる客の相手はもういいから、即刻接待を中止して今すぐ会社に戻ってこい!と言われる。で、客との会話もそこそこに接待を切り上げて、慌てて会社に戻ったら、実際はどうでもいい雑用だったり、などなど。挙句の果てに新婚旅行中の私の携帯に「いま何してるんだ?」と電話をかけてきたこともありました。
この時は本当にまいりました。まさにパワハラブラック上司。私はかなりストレス耐性のある方だと自負していますが、さすがにこの頃の精神的負担は大きかったです。胃にポリープができ、毎日血尿が出ました。
そんな時、別のメーカーから「海外営業を募集しています。うちで働いてみませんか?」と声がかかりました。ブラック上司の下で7年ほど働いた私は、二つ返事で移籍を決めます。それが今働いている会社で、3回目の転職でした。
米国赴任
移籍後は、前職での経験を買われて米国担当の営業マンとなりました。新規事務所の立ち上げメンバーとなり、入社2年目にして1年の期限付きでシリコンバレーへ単身赴任します。現地でのミッションは新規顧客の獲得。会社の期待もあり、プレッシャーはとてつもなく大きかったのですが、それ以上にまだ誰も手を付けていない市場に初めて乗り込むワクワク感の方が大きかったです。非常に高いモチベーションで新規営業をかけていくことができました。
シリコンバレーはベンチャー精神あふれる土地柄で、世界中から優秀な人たちが集まっています。従来の経験では出会うことのできなかった人々と交流できたことで、自分の人生や仕事に対する価値観が大きく変わりました。経営者視点で仕事をすることを強く意識するようになります。
帰国、組織の駒としての選択
そんな楽しい米国生活も、当初の予定通り1年であっけなく終了してしまいます。そして帰国後3か月もすると、米国でのスピード感あふれる刺激的な日々がまるで夢だったかのように、自分が平凡で退屈な日常業務に押し流されていくのが分かりました。
また、私が現地であげた実績はまるで何事もなかったかのように社内で取り扱われ、むしろ成果は出ていなかったことになっていました。とどめは久々に会った同僚の「あれ?アメリカに行ってたんだっけ?」という一言。いくら大きな組織とはいえ、本当にショックでした。自分はまるで、いてもいなくてもいい存在。ウソみたいに聞こえるかもしれませんが、本当の話です。
日本に家族を残して単身赴任で米国へ渡り、新規開拓の結果も残していたはずだったのに、自分の仕事が社内で正当に評価されていないと感じ、愕然としました。と同時に、組織の駒として働く以上はそれが個人の限界だということを思い知ります。
4回目の転職も考えましたが、踏みとどまりました。会社の看板を掛けかえるだけならば、どの会社に転職しても自分が組織の駒である状況に変わりありません。それに40歳を目前にした年齢のこともありました。ならば即刻会社を辞めて独立するか?しかしそこまでの勇気が私にはありません。そもそもどんなビジネスをするのか、そのアイデアすらないのですから。
結局、当面は組織の中で専門性を発揮して生きる道を選択しました。並行して、自身のスキルを磨くことをやりました。社会人向けの大学院へ通い、2年間かけて経営学修士(MBA)を取得したのはこうした背景があったからです。
副業開始
インプットした知識はすぐに実践の場で活用すべきです。そうしないと本当に使える知識として身に付きません。私はMBA取得後、平日の仕事終わりと週末の時間を利用して、すぐに副業を開始しました。自分の持つ知識と経験を総動員して、とある中小企業のプロジェクトをお手伝いさせていただくことになったのです。2019年6月のことです。
モノづくりの素晴らしい技術を持ちながらも下請け仕事が長く、販売やマーケティングのノウハウが自社にない、という悩みを抱えた会社さんに、マーケティングの観点から企画を立案し、実行までをサポートする仕事です。私はコンサルティングなんてやったことはなかったのですが、自分の経験に基づいて提案をさせていただくと「そんな視点、今までの自分たちでは思いつかなかったです。ありがとうございます!」と、社長から大いに感謝していただけました。
私自身も他の方のお役に立てて、これほど嬉しいことはありません。本業に固執していたら、決して味わうことの出来なかったやりがいと充実感を、副業によって得ることができたのです。
その一方で、私は独力でビジネスをやって収益をあげる道も模索していました。会社を辞めて独立する選択はいったん保留にしたものの、このまま会社の持ち駒として便利に使われるビジネスマン人生に満足できなかったからです。そう考えるようになったきっかけは、やはりシリコンバレーでの経験が大きく影響しています。
中古本せどり開始2か月で、月利10万円達成
自分に特別な技術やアイデアがない中で、極力リスクが少なく、すぐに始められて1円でも多く自力で稼げる商売はないかと模索してたどり着いたのが「せどり」でした。ビジネスの基本は利益を上げることですが、そのもっともシンプルで分かりやすい方法が物販です。例えば100円で仕入れた商品を300円で売る。儲けは200円。誰でも理解できる単純な商売です。
関連書籍を読み、ネットの情報を調べ、2019年8月にせどりをスタートさせました。最初はあまり手間をかけずにやろうと考えていたので、玩具やフィギュアをネットで仕入れては販売していました。しかしそんな素人商法はすぐに行き詰まります。売上が上がらず、利益が全く出ないのです。
せどり開始から3か月は利益が数千円程度。自分のかけた工数を考えると時給換算で完全に赤字です。さすがにこれではまずいと思い、やり方を転換させることにしました。取扱商品を中古本・中古家電に切り替え、実店舗での仕入れにシフトさせていったのです。
転換点となるきっかけは、YouTube動画でした。せどりを非常に分かりやすく解説している人を見つけ、その人の動画を探して全て視聴しました。その人は「いとう社長」という名前でブログやメルマガも展開しています。最初はいとうさんのコンテンツを使って独学でせどりを実践していましたが、それにも限界があると感じ、ついにいとうさんのコンサルへ申し込みます。2019年11月末です。
そして2020年1月、初めて月利10万円越えを達成することが出来ました。(ここで言う月利とは、毎月の売上から仕入れ原価と経費を差し引いた、営業利益ベースの金額を指しています。)
その後、現在に至るまで、安定して月利10万円以上を稼ぐことが出来ています。
これから目指すところ
コロナ以前、世間では少子高齢化による人口減少とそれに伴う人手不足を背景に、労働生産性の向上を目指すビジネスマンの「働き方改革」や、「副業解禁」の話題が取りざたされていました。コロナ発生後、需要が一瞬にして蒸発する事態となってからは効率の高い個人の働き方改革がもはや不可避の状況です。そもそも会社自体が存亡の危機にさらされている企業が少なくありません。
コロナはいつか終息するでしょう。しかしこの危機を乗り越えた後、企業と個人の関係は一変しているはずです。従来のような義理人情で結びついた家族的な関係から、もっとドライで合理的な雇用関係になっていくと思います。そうすると、個人でサバイブできる力を身に着けていないビジネスマンは、ますます不安定で立場の弱い仕事に追いやられ、淘汰されていかざるを得ないでしょう。
副業(複業)でしたたかに生きる。例え1円でもいいから、まずは自分の力で稼ぐビジネスをやってみましょう。会社の給料以外に収入を得ることが出来ると自信になります。自分の好きなことに制限を設けず、どんどん挑戦することが出来るようになります。そうすることで自分の世界が広がっていきます。副業(複業)で収入を多角化し、精神的には会社に縛られず、さらに副業を通じて自己成長することができたら、本当にハッピーなことではありませんか。
このブログでは私が実際にどうやって副業を始め、収益を上げてきたのか。そのノウハウを綴っていきたいと思います。